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岸田國士戯曲賞受賞者に聞く

今年の岸田國士戯曲賞受賞者に聞く。笠木泉さん 「書くことを選択した今は、演劇をより楽しんでいる気がします」

2025年9月21日

2025年、第69回岸田國士戯曲賞を受賞した笠木泉さん。宮沢章夫さん主宰の遊園地再生事業団出身で、主に舞台俳優として活動している。近年、劇作や演出も手掛けるようになった。2018年、自作を上演するユニット・スヌーヌーを旗揚げ、今回の受賞作「海から100年」は9作目の戯曲だ。

24年12月、横浜の海の見えるアートカフェ・象の鼻テラスで上演された「海から100年」はアクティングスペースのまわりを観客の椅子がぐるりと囲み、そのなかで3人の俳優が演じた。

女性ふたりと男性ひとり。3人は早朝、工場のバイトに向かうマイクロバスで一緒になる。彼らはやがて海へ向かう。

笠木さんの書くものは日常と非日常がシームレス。彼女の個性はどこから生まれたのか、劇作をはじめた理由や「海から100年」で書きたかったこと、これからどんなことをしていきたいかなど、象の鼻テラスでロングインタビューをした。

象の鼻テラスでの“笠木 泉”さん

 

「海まで100年」白水社 「モスクワの海」を併録。選考委員による選評も掲載。

 

今年で芸歴30年 なぜ、戯曲を書き始めたのか

――横浜から海で福島に行けるんですか。

船の便は出てないですね(笑)。福島は陸路が近くて、電車だと2時間半くらいかな。船だと超かかっちゃいます。

 

――象の鼻テラスで演劇をやることになったきっかけは何だったのでしょうか。

私はいわゆる東京の一般的な劇場でやりたいという気持ちがあまりなくて。といいますか、コスト的に不可能な場合もありまして、劇場よりもカフェやライブハウス、スタジオなどを探すなかで、ここをご紹介していただき、見つけたんです。すごく良いところだったので使用させてほしいとお願いしました。

 

――ここはワコール系なんですね。

そうなんですよ。青山のスパイラルホールと母体が一緒と聞いたとき、なるほどと思いました。横浜市と連携しているとは思いますが、どうりでワークショップや夜のイベントの企画が素敵だなあと。

 

――私は笠木さんの芝居をはじめて見たのが三鷹SCOOLでした。

スヌーヌーの第一回目の公演「ドードー」ですね。

 

――場所選択から見ても、笠木さんは、宮沢章夫さんの遊園地再生事業団の人だから、おしゃれで知的な文化系界隈みたいな印象があって(笑)。

宮沢さんは非常に知的な方で、ある意味研究者でしたけれど、私は全然そうじゃないですよ。だから私は宮沢さんの話の半分も理解できなかったですが、いつも聞いていてとてもおもしろかったです。勉強になりました。

 

――笠木さんの書くものはやっぱり宮沢さんの影響を受けているのでしょうか。

どうなんでしょうね……。似ているとおっしゃる方もいらっしゃいます。私が遊園地に参加し始めたのが1995年くらいで。「知覚の庭」という舞台で、宮沢さんがちょうど「え」とか「いや」とか「なに」みたいなセリフのやりとりで2時間みたいな、そういう静かな演劇をやっていた時期でした。たぶん、私にもそういうものが染み付いていると思います。自分の戯曲を書いていると、会話にそういうやりとりが出てくるから影響を受けていることは確実で。でも表現方法は別な感じはしていて。

 

――私は初めに笠木さんから「モスクワの海」の台本を送ってもらって。それと「海まで100年」を読んだときもそうなのですが、とても面白いことをいっぱい考えているんだなと思って。気の利いたやりとりのセンスがいいなあと。そういうのは自然に出てくるものなのですか。

いやぁ、苦しんではいるとは思います。根は生真面目、というよりはふざけているほうで。誰しもそうだと思いますが、若いときはどうでもいいことで、1、2時間笑っていられますよね。とくに俳優はそういうことを稽古場で繰り返していて。そういう体験が自分の書くもののベースになっているとは思います。ただ、面白いこと、すなわち「笑い」を書くのは相当難しいと思うんです。笑ってもらうものやコントは書こうと思って気合を入れるとすべる。役者のときと一緒で。「笑い」は自分にとって本当に難しい。私はとても自己肯定感が低いので、生きている日々の中でどの場面でも常にすべっているみたいな気持ちがどこかにうっすらあるんです。不安が自分を支配している。でも、戯曲を書いているときのほうが役者をやっているときよりもすべっていない気もしていて。というか、書くことを選択した今は、演劇をより楽しんでいる気がします。自分に心地よいものを選んでいるからかなと思うんですよ。我を強くしているというか。基本的に気ぃ使いなところがあるのですが、戯曲を書くときだけはいろいろな人に遠慮しないようにしています。

 

――戯曲のあとがきに漫画家を目指していたと書いてありました。もともと書きたい人ではあったんですね。

ハハハ。漫画家になりたかったのは、物語を書きたいというよりは、小、中学校のとき、漫画が大好きで、漫画家に憧れていたんです。私は「りぼん」派で、一条ゆかりを読むと、わぁこういうのを描きたい、さくらももこを読むと、わぁギャグ漫画を描きたいとか思って。何かを描きたいというわけではなく、割と漠然と漫画家になりたくて。とりあえずGペンやスクリーントーンを買ってカタチから入っただけでした。

――漫画家ではなく俳優になったきっかけは何だったのでしょうか。

言い方が悪いかもしれませんが、演劇は「その世界」に一番早く近づけたんですよね。若さの衝動の先に演劇がありました。高校生や大学生のときに演劇を見てすごく面白くて。宮沢さんの「箱庭とピクニック」を見たときは衝撃でした。大堀こういちさんや温水洋一さんがいて、内容はよくわからないけれど、なにかすごい世界がそこにあって。この人たちに近づきたくて、オーディションを受けました。若い頃からサブカルチャーによって自分が形成されているのはわかっていたから、行くならそっち方面しかないという自覚が多分深層心理にあったんです。

 

――そして受かったんですね。

オーディションに受かったもののしばらくは役者としての自覚は全然ありませんでした。素人感覚のままで、役者として何かを極めたいみたいな気持ちはなく、でも日々刺激的で稽古もとても楽しかった。そうやって、アニメ「フリクリ」(00年 鶴巻和哉監督)で声のお仕事ができたりして、ラッキーなことが続いたんです。

 

――アニメの世界に行けた。漫画の人になれたってことですよね。

びっくりでした。金字塔ですよ、私の人生の!(笑) いまだに海外の「フリクリ」のファンのかたからファンレターやメールが来ます。その後、ほぼ声優をやっていないのに。

――逆にそれが希少価値かもしれないですよ。

それはあるかもしれないけれど、あまりにもやっていなさすぎるから(笑)

 

――アニメの人にもなれて、演劇の人にもなれて。誰もがそういうことを願うけれど、だんだんと振り落とされていくじゃないですか。笠木さんは続いているからやっぱり才能があったんですね。

気がついたら30年……。「知覚の庭」から今年で30年です。

 

――受賞もして30周年で、今年はおめでたいことだらけですね。

岸田戯曲賞の受賞式のスピーチで「今年芸歴30年です」と言ったら、みなさんから拍手をいただきました。今、49歳なんですけど、私を30年間、観てくださっている方もいるし、スヌーヌーの劇作家である私しか知らない人たちもいらっしゃるから不思議ですよね。

 

――俳優、アニメの声優、劇作家……みんなそれぞれ違う笠木さんを知っている。

そうですよね。この間も、私のような人はあんまりいないかもと言われました。でも、やっぱり20、30代は舞台俳優としての活動が大きかったですかねえ。

 

――やっぱり泉さんといえば舞台俳優というイメージもあります。

そう思っていただけると本当に嬉しいです。やってきた甲斐がある。

 

――いまやそこに劇作家の顔もある。結果をいきなり残した感じですが、書いたものを読むと、笠木さんは書く人だったんだなと思います。

そうなのかなあ。ずっと書きたいとは思っていましたが、なかなか時間がなくて。40歳過ぎてからだんだん書く方にシフトしていきました。最初のうちは劇作家と名乗るのが恥ずかしかったです。「モスクワの海」を書いて岸田戯曲賞にノミネートしていただいたくらいから劇作家と言っても怒られないかなという気持ちになりつつあって。ようやく最近名乗れる気持ちになってきました。臆病なんですね。

 

――俳優は他者の言葉を喋るものだけれど、劇作は自分の中からテーマを出してくる。さっき笠木さんが言った「自分の我を出す」仕事で。笠木さんが書くべき確たるテーマを見つけたんだなという印象が「モスクワの海」や「海まで100年」には感じられます。ご自身はどんなふうに思っていますか。

例えば、震災に関して言うと、実家が福島のいわき市なんですけど、私は当時、いわきにいて被災したわけではないですし、実家が大きな被害を受けたわけでもないんです。あの日以来、父と母は当時しばらくこっちに避難してきていましたが、実家は津波の被害がたまたまなかった場所なんです。震災で地元の人たちが翻弄されて大変な状況のとき、私は横浜にいて。ただ地元のことを慮ることしかできなくて。例えば毎日のように放射線情報を見ている地元の方たちと関東にいる私たちの距離みたいなものを感じながら、離れている自分にも、世の中にも、いろんなことにも憤っていました。どうにもならな過ぎるけれど、世の中は過ぎていくばかりで。ことあるごとに実家に帰るように私はしていたのですが、そんなことでは何も埋まらない大きな溝というか、大きな悲しみがあると思って。でも私は無力で。その無力さは途方もなくて。いつも逡巡していました。そういうところは自分が正直に書かなきゃと思ったひとつではありました。何か伝えたいとか、何かできるとは全然思っていなくて、でも私自身が感じたことを書くのだったらこのことを書こうという気持ちがありました。

 

――震災のあとから戯曲を書き始めたわけではないんですよね。

その前からちょこちょこ書いていました。自分が精神的に追い詰められたときに浮かぶ様々な感情の元は何なのか。わたしを含む女性たちが日々悩んでいて、追い詰められる。その悩みのもとは何なのか、そういうことに興味がありました。他者とのコミュニケーションがうまくいかないとか、いろんな嫌な気持ちが渦巻くとか。そういうことをどうやって書くか、それは今も考えています。

 

物語のなかだけではほんの一ミリでも救われるようにしたいと考えています。

――自分の悩みを戯曲にしているんですか。

はい。わたしはいろんな方法で結局自身のことを書いていると自覚しています。女性の生き方に興味があります。やっぱり現代社会の中で、「女性」は弱い存在であるのには間違いない。それをどう物語にするかを昔は考えてやっていました。……弱い人のことを書きたいんですかね。自分を含めて社会的に、例えば声を上げられない人とか、例えば、老人とか、うまくいっていない人や、生きづらい人の声が届かない、「届いていない」と痛感するから。これからも、一番書きたいことになるのではないかなと思います。

 

――弱者という話で思い出したのは、「海から100年」で3人がバスに乗っていて、「あのバイトがどうなっただとか、あいつは最低だとか、死んでしまえとか、まじで許せねえとか、……彼女たちは、そういう噂話は、決して、決して、しなかった」というセリフが印象的でした。

裏でネガティブなことを言っていることは、友達や家族の間でもありますよね。それが普通の世の中だから、そうじゃないところに行くとすごく嬉しかったり、心が洗われたり、私もちゃんとしようと思ったりするじゃないですか。悪口を言わないようにしようと思ったり。その繰り返しで人生が回っていて。それをちゃんと言っていかないと、性格のいいことや、優しいということや、誠実であることが貶められたり、端に追いやられたりするようなことになる。そんなことはあってはならないと思うんですよ。性格がいい人こそいいんだという、優しい人最高とか、当たり前のことを言いたくて。でもいい人はすごく弱かったり、痛い目を見たりすることがある。それがすごく残念だし、うまく立ち回れない人が損をするみたいなことって本当に良くないと思う。

私も含めて、やっぱりこの社会で上手くやっていけない人がいっぱいいて。その一方で世の中には世渡りが上手いし、人付き合いでのし上がる人もいる。私はそうじゃない方だと思っていて。だからこそ自分を支えたいのかもしれないんですけど……。性格が悪い人の方がドラマの中では面白いというのはもちろん物語としてはありますよね。悪役の方が面白いけれど、私は悪をそんなにうまく書けないだろうと思って。これからもできるだけいい人を書きたいとは思いつつ、ただ、それが偽善だと言うことにもなりかねなくて、そこはすごく危険なところだと思うんです。全てが良しには決してならないし、世の中には嫌なことばっかり、落とし穴ばっかり、一寸先は闇みたいなことばかりあるから。物語のなかだけではほんの一ミリでも救われるようにしたいと考えています。このあまりに不安な世の中でたった一瞬でもいいから、ちょっといい方向にいくものが作れないかなと常に頭の片隅では思っています。

 

――この答えって私の感想に合わせてくれているわけじゃないですよね。

そんなことはないです。「……彼女たちは、そういう噂話は、決して、決して、しなかった」というセリフは別になくてもいいなとも思ったけれど、やっぱりあえてこれは入れようと思ったものなんです。特にモノローグは書いているとわーっと一気に書いて後で精査したとき、感情がダダ漏れみたいなのがあって。くだらない話をしながら、みんなそれぞれがなんとなく思いやりを持っているということを書いたので、まあ別にいらないっちゃいらないとも思ったんですよ。でもいや待てよ。やっぱりこの3人を象徴するセリフにもなるなと思って入れたので、その感想は嬉しいと思いました。

 

――私が弱いから、そういうことに敏感になるのかもしれない。

いや、私が弱いからですよ。

 

――いや私が(笑)。

私が弱い(笑)

 

――弱い勝負をしてしまった(笑)。私は「海まで100年」を見たとき、朝早く起きて工場に出かけていく。そこで朝が明けてくる感じのリアリティを笠木さんはどうやって得たのかなと思ったんです。

経験が、あるんです。役者をやっていると、超貧乏な時期があって。もちろんそうじゃない人もいると思うけれど。私はとてもいろいろなバイトをしていて。若いときに、本当に桜木町朝6時集合で海を渡って工場街みたいなところに連れていかれたことがあります。残業もあって、めちゃくちゃ寒くて、泣きながらバイトして、あまりにつらすぎて辞めちゃうみたいな経験があるんです。それが自分の中にこびりついていて。例えば、朝バス停に集合して、海を渡っていくバスの中で海を渡っていく3人の会話は自分で想像するけれども、それ以外のところは自分の経験が自分を支えているというか、一つの創作の一本の柱には毎回なっています。

 

――生活のディテール描写を曖昧にしていないところが良いなと思って。夜が明けてくると星が消えていくみたいなところなんかも。

それも経験しています。やっぱり長く生きていると、そんな日もいっぱいあって。うまくいかないことが多いんでしょうね。こう生きたいのに、できないみたいな日々を、私だけじゃなくて多くの人が味わっていると思うんです。そういう時に「何が自分を助ける」のか。星が消えて明け方になるとか、そういう時間が記憶の中で映像として残っているみたいなことがいっぱいあって、書いているとそれが引っ張り出されてくるみたいなイメージですね。想像で書けたときは本当にラッキーで。書いているときに、想像の方向に話が飛躍して、意外だと思うときがあります。翌日読み返したらとんでもない想像だったから消すみたいなこともあります(笑)。

 

――例えば「海まで100年」で思いがけない飛躍になったことは。

2章の最後、キタミさんが、急にリュックを背負って箱舟に乗ろうというシーンがあります。バスが船になっていくみたいな。ノアの方舟じゃないけど、いろんな動物が乗って、海が割れるみたいなことに結びついたのは意外でした。現実的なシーンから一気に飛躍したシーンに行くところなど、自分の話を客観的に見るとちょっとファンタジーだなと思うんですよね。

 

――審査員の講評が本に載っていて。本谷有希子さんが笠木さんのト書きの多さは戯曲の範疇を超えているみたいなこと(意訳)を指摘していて。それをどう思いましたか。

その通りだと思います。ト書きは多いですよね。戯曲とは基本的に上演台本としてお客さんが読むものではなく、役者の指南書のような意味合いがあると思うのですが、それでト書きがもうちょっと曖昧なことが書いてあったとしたら、役者はどう考えるのかなとか考えると面白かったし、上演台本をさらにちょっと書き足したりしたんですけど。一つの物語としてト書きを膨らませようと意図的にありました。それがいらないと思う人はもちろんいっぱいいるだろうなと思いました。でもチャレンジじゃないけれど、戯曲一つの形としてこういうのもあってもいいかなと。ただ、演出家や俳優に、こんなに長いト書きをどうやって処理するの?と聞かれたら、好きにやってくださいというスタンスで。こう動けみたいな指示ではなく、あくまでもぼんやりした物語のイメージみたいな感じですね。

 

――映像ではト書きはあまり書かない方がいいと言われるそうですが。笠木さんのト書きは、演出家や俳優がさらに考えるものになっているような気がしてそこが面白いし、いいんじゃないかなぁみたいな気がしました。

たぶんこれを見て本当に「なんだこれは」と思う方ははいると思います。

 

――俳優はそうなんですね。

私だったら読み飛ばすかもしれない(笑)。ヒントっていう意味合いでは邪魔じゃないと思うけれど、結局、舞台は演出家と俳優のものだと思っていて。自分が演出するからこういうふうに書いていますが、誰かが演出してくれる場合、もっとちゃんと書くかもしれません。

 

――とくに本になったときに読む楽しみがありました。絵も浮かぶし。

逆にト書きが面白かったと言ってくださる方もいて。最後のほうで、女1と男2が方舟に乗っていろんなところに日帰り温泉とか寄っていろいろ迷って遅れちゃったみたいなト書きがあるんですよ。そんなシーンは全くないのに。実はこのシーンは第1稿でセリフに書いたけれど、全カットしたんです。語られないけど実際にはそういうことだよみたいな意味のト書きなんですが、稽古をやるなかで結局それをト書きで復活させたんです。伝えなくてもいいことだけれど、裏設定でそういうのもあるんだよってことがあってもいいかと思って。目に見えるセリフだけじゃなくてもいいかなとは思っています。実はこんなことを思っていたが、それは言わないとか、そういうト書きをどんどん増やしてしまいました(笑)。

 

――裏設定が好きな人もいますから。ほかに気になったのが、「〜かもしれない」「思う」とか「あるいは」みたいな、はっきり決めない感情のモノローグみたいなのが多いような気がして。そこに意識はありますか?

人は寝ているとき以外は、基本的には何かを考えていると思うんですよ。何かしらのことを考えているときに常に不安定な意識や考えが、こうかもしれない。うまくいかないかもしれない、私は間違っているかもしれない、という不確定な感情ができているというふうに私は思っていて。断定したモノローグを書くことはできないんです。どう考えても次の瞬間にはやっぱり意識が変わってきて。今日例えば、親を大事だと思ったとして、でも次の瞬間やっぱり親の面倒を見るのは大変だなと思ったりとか、そんな自分が嫌だなと思ったりという風に、常に意識が流れているイメージがあって。感情というより時間を描きたいという意識はあります。私自身が曖昧な存在だと思っています。しっかりしている人が羨ましいけれど、きっとその人も心の中では不安定な時間や感情を過ごしているんだろうなと勝手に想像して書いています。

 

――こういう逡巡するセリフを俳優さんは演じやすいものですか?

いやあ、覚えにくいとは言われたことがあります。特にモノローグが覚えにくいと言われますね。私のリズムや呼吸で書いているから多分やりづらいのだと思います。でも好きに覚えてくださっていいと言っています。一言一句ちゃんとやらなくていいですと。

 

――優しい。

優しいんです、自分がそう言われたら嫌だから(笑)。

 

――自分だったらこのセリフはちゃんとすぐに覚えられますか。

それが覚えられなかったんです。劇壇ガルバの「ミネムラさん」(24年)という公演で、自分の戯曲を自分で演じる機会があったとき、意外とセリフが入らなくて(笑)。

第69回 岸田國士戯曲賞受賞作品「海まで100年」

 

 

スヌーヌーは、赤字にならないこととチケット代を上げないことが目標なんです

――次の公演の予定はありますか。

今考えていて。まだ決まっていないのですが、今年中に1本できたらいいなと思っています。

 

――そんな感じなんですか。みなさん、2年前から決めているとよく聞きますが。

私がすごく適当で。一人で自由にやっているから、私がこの辺り、行けそうだなと思って、わりと直前になっていろいろ決めていました。だから決まると準備を急がなきゃいけなくて。

 

――じゃあ、象の鼻のテラスの公演も結構ギリギリだったのですか。

そうですね。多分、去年のこれぐらいの時期(8月)に場所を決めました(公演は12月だった)。私は計画性がなくて、でも、予算管理とか制作業務も基本自分でやっているので、なんとなくここを借りられそうかなとか、この予算できるかなとか、あんまり人を巻き込まないようにやっているとそれもできる。これがもうちょっとちゃんといろんな方を巻き込むと、ちゃんとしないといけないですが。今は一緒に考えてくれる制作スタッフがいてくれて、助かっています。

 

――場所を決めてから台本を書くわけではないですよね。

そこから書いています。毎回執筆期間を1カ月とか決めて一気に書くんです。日々、いろいろ考えてはいますけど、ひたすらメモに残すという感じで、実際に書き出すと短期集中です。

 

――ゆくゆくは規模を大きくしていきたいのか、ずっと一人でこの規模でやっていきたいのか、ビジョンはありますか。

信頼できる方とかいろんな方とやりたいという思いがありますが、基本的には、大きくしたい気持ちはないんです。今のスタンスでやれたらいいなという感じですね。ずっとこの規模でいくつもりです。大きくするというイメージがあまりわからないんですよね。

 

――基本、ひとりでやるというのはどの程度のことをひとりでやっているのでしょうか。

全体的にうっすら何でもやるんですよ。衣裳も自分でつくるし、舞台監督もいなくて、私がやっています。でも最近は手伝ってくれる人たちにあまりいろいろやりすぎないように止められています。心配かけております…。

 

――衣裳も作っているんですね。

衣裳に関しては、今は作ってくれる方がいて。全部お願いしています。昔は、足りないものは自分で作りました。私、手芸が好きなんですよ。いまもバイトをしていて、椅子の張り替えをやっているんです。それこそ工場ですけど。手作業の現場はすごく楽しいですよ。

 

――赤字にならないのもちゃんとできているんですか。

スヌーヌーは、赤字にならないこととチケット代を上げないことが目標なんです。とにかく今はこの規模で2,800円以上上げないようにしています。今、ほんとうにチケット代が高くて、見にいくのが辛いですよね。見たいと思っても見ることができない人がたくさんいると思って。もっと気軽に、劇場に足を運んでもらうための、わたしなりのひとつの「意志」というか、そのためには自分ができることは何でもやっています。できればもっと安くしたいです。ただ、自分で全部やるのは年齢的にも辛くなっちゃうから、どこかでうまくやっていく方法をこれから考えなきゃいけないのですけれど……。

 

――質のいいものを安くやることがこれからは貴重になるんじゃないかと思いますよ。

頑張らなきゃ。頑張ります。いい作品が作れるように、もう少し書き続けたいと思います。

スヌーヌー vol.4「長い時間のはじまり」

 

 

【プロフィール】

かさぎ・いづみ

劇作家・演出家・俳優。
福島県いわき市出身。日本女子大学人間社会学部文化学科在学中に俳優として宮沢章夫主宰の遊園地再生事業団に参加。
以後、遊園地再生事業団を中心に、ペンギンプルペイルパイルズ、劇団、本谷有希子、劇団はえぎわ、ミクニヤナイハラプロジェクト、ニブロール等の舞台作品に多数出演。テレビドラマ「あまちゃん」や映画「パンドラの匣」「残穢」
「ゴールデンスランバー」等、映像作品にも多数出演する。またOVAアニメ「フリクリ」、「ピューと吹く!ジャガー」に参加し声優としても活動する。2018年から自らが戯曲を書き演出するフィールドとしてソロ演劇ユニット「スヌーヌー」をスタートさせ、以降、劇作家、演出家としての活動も続けている。
2016年 「家の鍵」せんだい短編戯曲賞最終選考ノミネート。
2021年 「モスクワの海」が第66回岸田國士戯曲賞最終候補ノミネート。
2023年11月 劇壇ガルバ「砂の国の遠い声」(作・宮沢章夫/東京芸術劇場シアターWEST)の演出を担当。
2025年 「海まで100年」が第69回岸田國士戯曲賞受賞。

 

 

【情報】

スヌーヌーvol.6 「月の入り江」
Bay of Lunik/Sinus Lunicus

会場
MURASAKI PENGUIN PROJECT TOTSUKA
〒244-0003神奈川県横浜市戸塚区戸塚町4247-21地下1階
(JR東海道線・横須賀線・横浜市営地下鉄/戸塚駅西口より徒歩7分)

日時
2025年
12月9日(火)  19:30
12月10日(水) 14:00 19:00
12月11日(木) 14:00 19:00
12月12日(金) 19:30
12月13日(土) 14:00 18:30
全8ステージ
受付開始・開場ともに開演の30分前

作・演出
笠木泉

出演
渡辺梓
上村聡
踊り子あり
鳥島明

料金
一般前売 2800円
一般当日 3000円
神奈川県民割 2600円(枚数限定)
他、ハンディキャップ割、学生割引等ございます。

チケット発売日 2025年10月1日

お問い合わせ先 snuunuuoffice@gmail.com
スヌーヌーHP  https://snuunuu.com/

 

取材・文・写真:木俣 冬

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